单项选择题

  何年(1)前のことになるが、京都(2)中心にいろんな職人さん(手艺人)の仕事場を訪ねたことがある。織物の職人さん、陶器や扇子の絵付け師、人形師、そして彫り物の職人さん…まあ、全部で二十種類ほどの手仕事場を見た。

  率直に言って、職人さんというのはしばしばかなり偏屈である。こっちがいろいろ質問しても、満足に返事をして(3)。返事をした(4)、たいてい無愛想である。時には、じろりとこっちを白い目でにらみつけ、終始無言のまま仕事に熱中している。別に意地悪なのではない。かれらは口下手なのであり、ただ手を動かして物を作ることだけの(5)生まれたような人たちなのである。しかし、なんとなく取り付く瀬がなくて、私は、(6)、ぼんやりとかれらの手の動きを凝視し続けるという経験を繰り返した。

  そんなふうに職人さんの仕事(7)を見ていて気がついたことが一つある。それは、かれらの使う道具が、あたかも手にぴったりと吸いついているかのように自由に動いているということだ。道具とそれを使う人間とが一体になっているのである。ぽんとその辺りに置かれている(8)は、道具は一つの無生物だが、職人さんの手の中に入った瞬間、まるで生き物ように躍動し始めるのである。

  彫り物をしている職人さんの仕事場には、何本、いや、何十本もの彫刻刀が並べられていて、それを次々に取り替えながら、細かい彫り物を完成していくのだ。職人さんはそれらの彫刻刀を取り替えるにあたって、別に視線を道具のほうに流したりはしない。さりげなく職人さんの手だけがすっと伸びて、指先がぴったりと必要な道具を捜し当てるのだ。長い間にわたって使い続けてきた彫刻刀の一本ずつが、いつも定位置にあり、その定位置は、指先が正確に記憶しているのである。

  それらの道具は、見ただけでも使い込まれているのがわかる。手のあぶらがしみこんで、木製の柄は黒く光っている。職人の手と道具とは一体化しているのである。(9)、そこでは人間と道具、主体と客体という区別はない。道具は人間の一部になっているのだ。

  道具と人間とのつきあいというのは、わたしの見るところでは(10)「人格的」なのである。使い慣れて、とうてい手放すことのできないようなもので、そういうものを持っている人は幸せなんだ。道具というのは、人間にとっての、もの言わぬ友人たちなのである。何十本もの彫刻刀に取り巻かれている彫り物の職人は、数十人の友人に取り巻かれ、その友人たちといっしょに仕事をしている人物なのであるといってもいいだろう。気の合った友人たちとともに仕事に熱中し、ほとんど我を忘れた状態にあるのが職人の生活というものである(11)、わたしのようなただの参観者の質問になど答えている暇のあろう(12)がない。職人が無愛想であることの意味を、わたしは、かれらの道具を見ていて理解することができたような気がする。

  (1)~(12)に入れるのにもっとも適切なものはどれか。

A.と
B.も
C.に
D.から