单项选择题

  入学式を終えた(1)の一年生らしい子供が母親に連れられて歩いている姿を見た途端、「ああ、かわいそうに」と私は反射的に思った。

  今日からこの子も勉強という、あの嫌で嫌でたまらないものを習い、覚えさせられるのかという思いである。私は自分が小学一年生になった日から、それまで夢の中の至福だった生活から、突然放り出され、いじめっ子や怖い先生のいる集団生活に入れられた遠い遠い昔のことを(2)思い出したのである。

  だから、本来ならば「おめでとう」と言わねばならぬのが「ああ、かわいそうに」と感じて(3)のだろう。

  もちろん、私の感じかたは正当ではないし個人的すぎるにちがいない。

  しかし、私には正直いって近頃の子供が哀れで仕方がない。それは朝から晩まで教育、教育というお母さんたち(4)引きずりまわされているからだ。

  小学校以前にも有名校に入学するための塾があって幼児たちはそこに通わされているそうだ。小学校に入れば入ったで、学校のあとも勉強塾に行かされる。

  私はこういうことを(5)「教育」とは思っていない。子供の教育とはこれとはまったく異質だと考えている。

  私は人間が幸せなのは小学校時代までだ、と思う。皆さんも昔のことを思い出していただきたい

  特殊な事情のあった方は別として、普通われわれが自分の人生を(6)、「幸せだったなあ」と思えるのは幼年時代や少年時代までではなかったろうか。それは親の愛に包まれ、毎日何の心配もなく過ごせた時期だからである。この時期を過ぎるとわれわれは多少は大人になり、大人になったが(7)色々と苦労もしなければならない。

  そう考えると、その短い幼年時代や少年時代を受験勉強させるために、「遊ぶ」こともできず、塾通いに振り回される毎日を子供にさせていいのか。それ(8)本当に人間の「教育」というものなのか、私は真剣に親たちが考える(9)だと思う。

  この図形が三角か、四角か、正三角形の辺が皆同じ長さだなどということは10歳になって知ればよいことであって、5歳、6歳が覚えねばならぬことではないはずだ。5歳、6歳が覚えねばならぬことは、犬や猫がどんなに可愛いか、白雪姫がどんなにかわいそうか、夕焼けの色がどれほど美しいかなどである。そして遊びの楽しさが子供たちの人生の思い出につながるような毎日なのである。

  私は今のすべての受験教育は素直に伸びるべき人間を盆栽を仕立てるように無理に捻じ曲げるものだと思う気持ちが心の(10)ある。

  もちろん、私のこの文章を(11)反対される父兄は多いだろう。「そんなことすれば子供が社会に出て結局、不幸になる」というのがその方たちのご意見にちがいない。私にもそれぐらいはよくわかる。

  しかし、不幸とか幸福とかは何の尺度で計って決めるのだろうか。親の幸福感や、人生観がそのまま彼らの子弟教育に反映するとすれば、「社会的出世」など(12)幸福とは関係ないことを主張できる親が日本にもいてよいのではないか。
(1)~(12)に入れるのにもっとも適切なものはどれか。

A.ぐらい
B.ほど
C.ばかり
D.だけ
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