[一]
西洋諸国の画法の基本は、写真(真を写す)というものであって、日本の画法とは大いに異なる。そのため和風中国風の画を描く人たちはこの西洋画法をたいへん奇怪なものと考えて、そこから学びとるべきものがあるなどとは思いもせず、どう扱ったらよいかわからぬままに、これは画というものではない、細工をこらして作りあげたものだなどという者まであるしまつだ。ばかげたことである。もともと細工とは精妙なこまかな技法のことを言う。和風の画でも中国風の画でも細画はみな要するに細画なのであって、人の毛髪やひげなどを一本一本描きわけているものもある。西洋の画法で毛髪を描くときは一筆で描くのだが、それを見ればちゃんと細い毛に見える。西洋画法では、和漢の画法でいうような筆勢とか筆意とかにはこだわらないのである。筆とはもともと画を製作するための道具にほかならない。それなのに、たとえば牛を描いてもそれが牛であることが示されずに、ただ筆意のみが出ているというのでは、一点垂らした墨も牛だと言うことになってしまう。それはちょうど医者が病気をなおすのに薬を使うのに似ている。薬はつまり絵具であり、医者は筆であり、病気は画にあたる。医者(筆)が良薬(絵具)を用いて病気をなおそうとするのに、その病気(画)がそもそもどこから、なぜ発生したのかを知りもしないで、ただ医者の心構え(筆意)ばかりを強調しているようなものである。画についても理屈は同じなのだ。
西洋画は筆意というようなことより、ただ自然の真相をとらえることのみを眼目(重点)とするのである。それにくらべれば和漢の絵画は単なるなぐさみもの(消遣品)にすぎず、ものの用に立たない。そのうえ、西洋画の画法では、濃淡によって、対象たる物の明暗や、凹凸や、遠近や、深浅の度をあらわして、その物の真の姿を正確に再現する。そのことによって文字と同じように情報知識の伝達に役立つのだが、特に物の形状などは文字でいくら説いてもわからず、結局画によらない限り伝えることはできない。( ア )、西洋の書籍には画図によって物を説明しているものが多いのである。西洋画は、だからけっして和漢の画のように、酒席の余興に一筆腕をふるって遊ぶ、といった気軽な遊戯などではありえない。真に実際の用に役立つ技術であり、また政教の道具でもあるのだ。
文中の「そこ」は何を指しているか。